少子化 1.25 &d
「少子化」を社会の問題として捉えるなら、子育て支援レベルの対策の議論だけでなく、私たちの社会のあり方を考え直すべきだろう。
厚生労働省が1日発表した2005年の人口動態統計(概数)によると、1人の女性が生涯に産むと推定される子どもの数を表す合計特殊出生率は1.25となった。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20060602AT3S0101F01062006.html
一人の女性が子どもを生むか生まないか、は個人の選択であって社会全体で合意が必要なことではない。もっとも、個人の選択と言っても、カップルの場合は相手の男性との合意にもとづく場合もあるし、未成年・未婚で妊娠したような場合は親などの意見に左右されることもあるだろう。それでも基本的に私的な(プライベートな)選択だ。
この私的な選択の結果を、社会全体の都合で一定の方向に向けようとするのは、どこまで許されるのだろうか? 年金財政の破綻を防ぐための少子化対策というものは、どこまで許されるのだろうか? 私的な選択を左右するほど重要な社会全体の都合とはなんなのだろうか?
現時点で日本の少子化の原因は、はっきりと特定できていないではないか。それなのに的確な対策は打てるはずがない。実際、合計特殊出生率の低下が止まらないのが何よりの証拠だ。私は「少子化対策」に絶対反対というわけではないし、原因がわかるまで何も対策をするなと言うつもりもない。しかし、どうもピントがずれているように思う(*1)。
人間が家族をつくり、子どもを生み育てて、群れ(社会)を維持する、というのが生物として自然な姿であるとするなら、現在のように群れ(社会)の規模を維持できないような水準まで出生率が低くなるのは、何かのバランスを欠いていると考えるべきだ。
バランスを欠いているのは、女性が働きながら子育てをしにくい環境かもしれないが、この社会に人口が多すぎることかもしれない。あるいは、個人主義(自分の人生)に偏りすぎた価値観なのかもしれない。生む生まないについての個々人の選択は、意識的にせよ無意識にせよ、こうした深層のバランス感覚を反映しているのだと思う。
少子化という現象を社会の問題として捉えるなら、私たちは自分たちの社会のあり方を深いレベルで考え直すべきだろう。例えば、年金財政の都合で出産を奨励する社会で良いのだろうか、と。この社会は子どもたちにとって住みよい社会だろうか、と。
*1)現状の少子化対策がおかしなものであることは、以前の記事に書いた、赤川 学「こどもが減って何が悪いか!」に詳しい。この本についてはサイドバーのLibrary を参照。
"&d"="and democracy": デモクラシーを切り口に様々なトピックを捉えるシリーズ。
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