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2006年6月

2006年6月30日 (金)

株式の非公開化 &d

株式の非公開化は、企業統治の面でデモクラシーの停止を意味する。株式市場を通じたデモクラシーの未成熟さを考慮すれば、非公開化を否定すべきではないが、一定のルールを設けていくことが望まれる。

会社の利害関係者の中で、株主は株主総会を通じてもっとも基本的な意思決定権を持つ。公開会社(*1)(上場会社)は"public company"であり、誰もがその株主になれる。その意味で、公開会社は企業統治の面でデモクラシー(民主制)なのだ。

株式の非公開化にはいろいろなケースがあるが、経営陣による買収(MBO)の場合は、デモクラシーから独裁制・寡頭制に移行するようなものだ。MBOによる非公開化は、前向きな事業の再構築(リストラクチャリング)の必要性が理由として挙げ、再公開(再上場)を想定しているようだが、これは有事に際して、デモクラシーを一時停止するようなものだろう。

基本的には、一時停止しなくてもよいように、株式市場を通じたデモクラシーの成熟度を高めていくことが大切だが、そこに限界があるならば、デモクラシーを停止するときのルールをきちんと整備すべきだ。

本当に非公開化しなくてはならないかどうか、「有事」の経営を誰が行うのか、「有事」かどうかをどういう手続きで判断するのか、といったことをきちんと定めていく必要がある。

例えば、経営陣がMBOを目的としたTOB(株式の公開買い付け)を実施する場合、第三者が代替的なTOBを仕掛けるための時間的な余裕を設けるというような規定が考えられる。そうでなければ、一般株主はTOB価格に織り込まれたプレミアムと引き換えに、株主としての権利を放棄する以外に、事実上道がないからだ。

*1: 「公開会社」は一般的な用語で用いている。5月に施行された「会社法」が別の定義をしたせいで意味がややこしくなってしまったのだが、ここでは従来の一般的な意味で用いている。

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2006年6月27日 (火)

すかいらーく MBOで株式非公開化へ

すかいらーくがMBOによって、株式を非公開化するというニュースがあった。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20060609mh04.htm

記事本文にもあるが、上場企業による株式の非公開化は、昨年からアパレルのワールド、飲料メーカーのポッカコーポレーションが行っている(他もある?未確認)。

都内で会見した横川竟(きわむ)会長兼最高経営責任者(CEO)は、「既存店の改修には相当の投資が必要で、赤字もありうる。株主にそうしたリスクを理解してもらうのは難しい」と述べ、上場が迅速な業務改革の足かせになっているとの認識を示した。

引用部分が意味するのは、前向きのリストラクチャリングのための短期的な業績の悪化について、株主の理解を得るのが難しい、ということらしい。

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自殺対策基本法が成立

先日、「自殺率 &d」という記事を書いたが、数日後に「自殺対策基本法」が衆議院で可決されて成立した(参議院がどうなっているのかわからないが、成立したと書いてある)。http://news.goo.ne.jp/news/asahi/seiji/20060615/K2006061500960.html

詳しい内容は調べていないが、超党派の国会議員による議員立法で、「与野党の賛成多数」で可決、成立したとあるので、まずは前進したのだろう。

法律(法案)は「自殺防止」と「自殺者親族らに対する支援の充実」を図ることを目的としている。(2006/06/01付 日経新聞夕刊より)

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2006年6月21日 (水)

日銀 福井総裁の資金拠出問題 &d

福井総裁は、法律にも内規にも違反していないのなら、辞任すべきではない。スキャンダルで金融政策を曲げるべきではない。今後、日銀の独立性と民主的な統制についてきちんと検討すべきだ。



日銀 福井総裁が村上ファンドに出資をしていた問題で追及されている。
http://www.asahi.com/business/reuters/RTR200606160060.html

そんな中、今朝(6月21日付)の日経新聞は、福井総裁がゼロ金利政策の早期解除を辞さない姿勢を示したと報じた。
http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt37/20060620AS2C2004J20062006.html

中央銀行(日本では日本銀行)は重要な政府機関の一つだ。経済活動全体に対する金融政策の影響力はかなり大きい。金融政策を政治的な思惑から切り離して安定的なものにするために、中央銀行は一定の独立性を持つべきだと考えられている。日本でも1997年に日銀法が改正され98年から施行された。
http://www.nli-research.co.jp/report/econo/eco9709.html

デモクラシーの観点から見ると、日本銀行の独立性は二つの面がある。一方で、時の政権から独立性を持つことは「権力の分散」という面があり、プラスの評価ができる。他方、日銀幹部などの専門家に無条件に意思決定を委ねるような形になっており、国会などの影響力が低いため、「民主的な統制」という面が弱い。

その点、インフレ目標に準ずるかたちで、消費者物価上昇率の中長期的な「目安」となる数値を初めて示したとされる福井総裁は、控えめながら評価してよいと思う。政策目標の明示は、責任者の事後評価・監視に有効だからだ。
http://www.asahi.com/special/060307/TKY200603100294.html

以上の文脈を踏まえ、さらに現時点で金利上昇によって最も深刻な影響を受けるのが、大量の国債発行残高を抱える政府(国の行政部門)だと考えるなら福井総裁は、かなり強い意思表示をしたのではないかと思える。

福井総裁は、法律にも内規にも違反していないのなら、辞任すべきではない。もちろん倫理的にはまずい。株式投資は「凍結」しておきながら、村上ファンドへの出資(投資)だけ解約しようとしたのも、筋が通らない。それでも、辞任すべきではないし、スキャンダルで金融政策を曲げるべきではない。

ただし、今回の事件をきっかけに、日銀幹部の私的な金融取引等について、きちんとした内規や法律を設けるべきだ。また、長い目でみたときには、日銀の独立性とデモクラシーについて検討すべきだ。日本銀行の政策に対する国民の民主的な統制のあり方を考えないといけない。

"&d"="and democracy": デモクラシー(民主主義)を切り口に様々なトピックを捉えるシリーズ。

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2006年6月13日 (火)

村上世彰氏の逮捕 &d

M&Aコンサルティング(村上ファンド)代表の村上世彰氏が、ニッポン放送株のインサイダー取引容疑で逮捕された。 http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060605AT1G0503R05062006.html

阪神電鉄株の問題で緊迫しているときゆえ、唐突な印象があったため、株の買占めなどの手法に対する懲らしめ、見せしめのための恣意的な捜査ではないかはないかという見方が身の回りでも聞かれる。私にもそう感じられる。

もちろん(容疑が事実なら)数十億円もの利益をあげたインサイダー取引は、見逃してよいような軽い犯罪ではない。しかし、同じようなことをしている人たちはほかにもいるだろう、と多くの人が感じていると思う。とくに権力に近い人たちがやっていると。

ライブドアの堀江氏にしても、村上氏にしても、経済界の変革を促進している間はもてはやされ、少し行き過ぎるとたちまち切って捨てられる。

「ルールは権力を持つ者によって裁量的に適用される」と人々が信じざるをえないような事態は、当然のことながら民主的な社会にとって望ましくない。

もちろんルールを厳密に定めることは難しいが、いきなり逮捕しなくてもブレーキをかける方法があるだろう。それとも彼らはブレーキさえも無視したのだろうか? 

いや、憶測に過ぎないが、その前にどこかで権力者の逆鱗に触れてしまったのだろう。やはりテレビ・ラジオ局や鉄道のようなインフラ(社会基盤)は、権力の基盤でもあるのだろうか

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2006年6月11日 (日)

少子化 1.25 &d

「少子化」を社会の問題として捉えるなら、子育て支援レベルの対策の議論だけでなく、私たちの社会のあり方を考え直すべきだろう。

厚生労働省が1日発表した2005年の人口動態統計(概数)によると、1人の女性が生涯に産むと推定される子どもの数を表す合計特殊出生率は1.25となった。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20060602AT3S0101F01062006.html

一人の女性が子どもを生むか生まないか、は個人の選択であって社会全体で合意が必要なことではない。もっとも、個人の選択と言っても、カップルの場合は相手の男性との合意にもとづく場合もあるし、未成年・未婚で妊娠したような場合は親などの意見に左右されることもあるだろう。それでも基本的に私的な(プライベートな)選択だ。

この私的な選択の結果を、社会全体の都合で一定の方向に向けようとするのは、どこまで許されるのだろうか? 年金財政の破綻を防ぐための少子化対策というものは、どこまで許されるのだろうか? 私的な選択を左右するほど重要な社会全体の都合とはなんなのだろうか?

現時点で日本の少子化の原因は、はっきりと特定できていないではないか。それなのに的確な対策は打てるはずがない。実際、合計特殊出生率の低下が止まらないのが何よりの証拠だ。私は「少子化対策」に絶対反対というわけではないし、原因がわかるまで何も対策をするなと言うつもりもない。しかし、どうもピントがずれているように思う(*1)。

人間が家族をつくり、子どもを生み育てて、群れ(社会)を維持する、というのが生物として自然な姿であるとするなら、現在のように群れ(社会)の規模を維持できないような水準まで出生率が低くなるのは、何かのバランスを欠いていると考えるべきだ。

バランスを欠いているのは、女性が働きながら子育てをしにくい環境かもしれないが、この社会に人口が多すぎることかもしれない。あるいは、個人主義(自分の人生)に偏りすぎた価値観なのかもしれない。生む生まないについての個々人の選択は、意識的にせよ無意識にせよ、こうした深層のバランス感覚を反映しているのだと思う。

少子化という現象を社会の問題として捉えるなら、私たちは自分たちの社会のあり方を深いレベルで考え直すべきだろう。例えば、年金財政の都合で出産を奨励する社会で良いのだろうか、と。この社会は子どもたちにとって住みよい社会だろうか、と。

*1)現状の少子化対策がおかしなものであることは、以前の記事に書いた、赤川 学「どもが減って何が悪いか!」に詳しい。この本についてはサイドバーのLibrary を参照。

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自殺率 &d

日本国内の日本人の自殺者が、8年連続で3万人を超えたという。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2030709/detail

「自殺率の高い社会は民主的な社会とは言えない」などという乱暴な主張をするつもりはない。それに残念ながら、 「民主的な社会であれば自殺する人は少ない」という主張ですら、科学的に主張するのは難しい。 むりやり、デモクラシーに結びつけるのはよしておこう。

誤解を恐れずにいうと、自殺には何かの価値に殉じるような美しい自殺があるかもしれないが、大半はそうではない不幸の結果としての自殺なのだろう。そういう自殺が多い社会は、民主的かどうかは別として、良い社会とは言えない。

人口当たりの自殺率の国際比較は、1999年のデータのものが公表されている。(2005年、厚生労働省。※比較対象の国はこの記事末)
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/11.html

これによると人口10万人当たりの自殺死亡率(男女計)は、ロシア(39.4人)、ハンガリー(32.6人)、がダントツで高いが、日本はその次に突出しており、25.0人。4番目はフランスの17.5人で、比較対象の中で最低はイタリアの7.1人となっている。

男子だけで見ると、やはりロシア、ハンガリーについで3番目だが、36.5人で、4位のフランスは26.1人と大きな差がある。

女子は、ハンガリーに次いで2番目に高く14.1名。ロシア(11.9人)が3位に入るが、やはり4位のフランス(9.4人)と比べても格差がある。

なにかと引き合いに出されるアメリカは、男女計10.7人,男子17.6人, 女子4.1人とかなり低い。(日本:男女計25.0人,男子36.5人,女子14.1人)

国民性と言われるような文化的な違いもあるだろうけれど、日本の自殺率は1990年代の終わりごろ(3万人を超えたのは1998年)に上昇した(男女計:'95年17.2人,'00年24.1人)。そのためにロシア、ハンガリーに次いで突出するようになった(ただし女子は以前から少し高めだった)。


交通事故死亡者数は、1988年から1995年まで「8年連続」で1万人を超えていたが、2005年はとうとう7000人を下回った。比較には無理があるかもしれないが対策に期待したい。

もっとも、対策以前に自殺を考えるような不幸な状況に追い込まれる人の少ない社会を目指したいし、身近な人がそういう状況に陥らないように、お互い助け合えるような関係をつくりたい。

[平成16年度交通安全白書より、交通事故死亡者数の時系列データ]

[2005年の交通事故死亡者数の記事]

※自殺率国際比較データの対象国: 日本、韓国、オーストラリア、アメリカ、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、イギリス、ハンガリー、スウェーデン、ロシア、以上12カ国。

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2006年6月 1日 (木)

プラーヌンクスツェレ &d

“プラーヌンクスツェレ”: 「計画のための細胞」(ドイツ語) 英語で“planning cell”

2006/05/31付の日経新聞(東京地方版)は、「まちづくりに参加意識 無作為抽出の市民ら討議」という記事を掲載した。それによれば、「まちづくりや行政政策の方向性を無作為抽出で選んだ住民により提言してもらう動きが東京都内で広がっている。」とのこと。その手法がドイツで行われている「プラーヌンクスツェレ」をモデルにしているのだそうだ。

日経の記事(図)によれば、「プラーヌンクスツェレ」の流れは次のようになる。

  1. 住民を無作為に抽出
  2. 抽出された市民に参加要請
  3. 議論テーマについて、賛否両面から情報提供
  4. 数人のグループに分かれて話し合い
  5. グループ替えしながら、話し合いをくり返す
  6. 提言のまとめ、公表

ウェブで「プラーヌンクスツェレ」を検索すると、千代田区で昨年実施された「市民討議会」の、「討議結果発表・意見交換会」に参加した方(東京ランポスタッフ・庄嶋 孝広 氏)による記事が見つかった。そのうち、「プラーヌンクスツェレ」の説明がされている部分を下記に引用しておく。
(全文はこちら http://www.la-npo.org/shucho/news/kyodo/news_kyodo20050819a.html )

●「市民討議会」には、実はモデルとなった手法がある。ドイツで行われている、「プラーヌンクスツェレ」である。日本の市民参加の研究者の間では、英訳された「プランニングセル(=計画細胞)」の名称で、むしろ知られている。
 公開フォーラムでは、「プラーヌンクスツェレ」の考案者であるペーター・C・ディーネル教授のもとで学んだ、篠藤明徳・別府大学教授により、ドイツでの実例の紹介もあった。ドイツでは、都市計画、交通・エネルギー・環境、外国人市民の統合、科学技術の影響など、多様な分野で300以上の実践例があるという。
 無作為抽出での参加、参加者への給与相当額の支払い、(委託元は行政でも)中立機関による運営、専門家からの情報提供、グループでの討議、投票による優先順位づけ、「市民答申」の作成・公表などが特徴である。
 1コマ90分の作業を、休憩を入れながら1日4回、4日間にわたって行うのがスタンダードだという。現地視察のプログラムもある。25名が1つの「細胞」の単位であり、グループ討議は、毎回メンバーを変えながら、5名ずつに分かれて行われる。

◆直接民主制のあり方として有効では?
現実的に、住民全員が参加するかたちの直接民主制は、ほとんどの市区町村レベルで無理だとすると、「無作為に選ばれた」住民(市民)が代表して議論するこの手法は、現実的な直接民主制のあり方として有効かもしれない。

◆ファシリテーターはおかない
補足ながら、床嶋氏の記事によると、「プラーヌンクスツェレ」ではファシリテーターは置かないそうで、千代田区の「市民討議会」でもファシリテーターはいなかったそうだ。

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