菅首相による浜岡原子力発電所の停止要請が、あまり大きく問題視されていないのが気になります。
私はこの停止要請はまずかったと考えています。こんなことが許されるのなら、民主主義は成り立ちません。まるで独裁者です。戦争に向かって進むときは、こんな具合になし崩し的に進むのではないかと心配です。さすがにそれは行き過ぎた心配だろうと言われそうですが。(笑)
何がまずかったか?
法的根拠にもとづいていない点に尽きます。お金を使うのだって、予算を国会で審議して承認を得る必要があるし、何かの政策を実現するのだって、法律を作ったり改正したりする必要があるのです。
民間企業の一事業を休止させるのには何らかの法的根拠が必要です。
もっとも、原子力発電所の安全管理には政府が関わっているので、何らかの根拠を探すことができたかも知れません。根拠があるなら、それにもとづくべきでした。省令とか、監督官庁からの通達とか、いくつかの方法が考えられたはずです。
そうした根拠なしに、なぜ単に菅首相個人の要請という形をとったのか?
理由としては、緊急性が挙げられます。しかも従来の政府の判断を改める局面なので、法的根拠がなかった可能性があります。そうであれば、首相の要請という形が許されるのでしょうか?
確かに、福島第一原発の事故状況を踏まえれば、緊急措置もしかたないんじゃないか、とも思えます。
しかし「誰が」「何を根拠に」判断を改めたのかが重要です。現状では、閣議決定なども行われておらず、菅首相個人の判断、要請でしかありません。しかも、判断の根拠が十分に明かされていません。(そのせいで、原発を抱える他の自治体の首長などが戸惑っています。)
これでは独裁者と同じです。
緊急性を重視して、やむをえず停止要請をするなら、同時に判断の根拠となる情報を開示する必要があります。仮にその情報にもとづけば停止すべきことが自明なのであれば、すぐに立法が可能でしょうから、速やかに立法の手続きを始めるべきです。
しかし、根拠となる情報は断片的にしか出されず、事後的にでも法的根拠を作ろうとする動きが見えてきません。これでは、単なる思いつきか、単純に不安に駆られただけ、と言われても否定できません。
さらに、やむをえず停止要請をするなら、公表をせず内々に中部電力に伝える方法があったはずです。これは立派な政治的圧力ですが、それでも中部電力には、断るなり、法的根拠を出すように逆に要請するなりの方法がとりやすかったはずです。
しかし、停止要請を大々的に公表してしまっては、事実上、中部電力に選択肢はなかったと考えられます。透明性は高いものの、超巨大な政治的圧力であるのは間違いありません。
停止要請の公表は、判断の根拠が明確に示されなければ、壮大な「風評」と違いがありません。首相個人の判断で「あそこは危ない」と一方的に言われたわけですから。
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私自身は、原発を推進すべきではないという立場で、今回の福島の事故をきっかけにして、できるだけ早く脱原発を進めるべきだと考えています。浜岡原発がとりわけ危険性が高いのであれば、優先的に停止するという政策(政策転換)は歓迎します。
しかし、そのための方法がなんだっていいとは思いません。周辺住民の安全、人命がかかっていると言えば、政府・首相には何だって許されるわけではありません。
まるで独裁者のような行為をしかたがない、と受け入れてしまえば、政府の権力を制御することができなくなります。民主主義は、選挙などの民主的な手法で独裁的な権力を握る人を選出するしくみではないのです。
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それにしても、この停止要請がさほど問題視されていない現実をどう受け止めれば戸惑っています。
私は、菅首相については、震災後の対応のまずさ云々よりも、この停止要請だけで不信任に値すると思うのですが、日本社会全体としてはそういう流れではないようです。
日本には法治国家のしくみがなじまないのかなぁとさえ考えてしまいます。だとしたら、どういうしくみで民主的な社会を築いていけばいいのだろうと、大きな問題を突きつけられた気持ちです。
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