日記・コラム・つぶやき

2008年12月 5日 (金)

捨て身の人間には誰だって殺されうる

元厚生労働時間宅襲撃事件で明らかになったことは、

捨て身の人間に狙われたら誰もが命を奪われかねない

という現実だ。

秋葉原や土浦の連続殺傷事件でも、犯人は捕まることを覚悟している。あとさきのことを考えなければ、他人の命を奪うことは、さほど難しいことではない。

つまり、自分の人生に生きる意味を見出せなくなって、他人の人生も大切に思わなくなった人間が現れると、安心して社会生活を送れなくなってしまう。

それならば、私たちは、ともに暮らす人たちすべてが生きる意味を見出せるようにする必要がある。そのためには孤立する人を作り出さないようにすることだ。なぜなら「意味」や「生きがい」のようなものは、他人との関わりの中でしか育まれないものだからだ。

基本的人権というけれど、法律で保障され、司法、行政などが保護、支援する種類のものでは、人間的なつながりは得られない。もっと身近で「人」を感じられる支えが大事だ。

政府や役所に任せられることではない。私たちが「身近に居合わせる他人」の人生を大切にすべく関わっていかなければ、この社会では、生きる意味を見失う人が量産されてしまう。

基本的人権がもたらすべきものが「生きる意味を感じられること」なら、この人類の崇高な理念をお飾りにせず、実利的な知恵としてふだんの行動、態度に組み込むべきだろう。 

つまり、私たちはこれまでの価値観を少し改めて、他人との距離のとり方を変えていく必要がある。干渉しないという形の尊重ではなく、温かく抱きしめるように積極的に関わっていくべきなのではないだろうか?

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2008年3月23日 (日)

松屋が割り箸をやめた

今月から、近所の松屋が割り箸をやめて、再利用するタイプの箸に切り替えた。全店でそうなったのか確かめていないが、たとえ少しずつでも切り替えを進めていくことを歓迎する。

吉野家は、僕がときどき行く店は、まだ割り箸のままだ。

実は去年の初めごろ、マイ箸を買って使い始めたものの2,3ヶ月でくじけてしまった。いくつか理由がある。

1)割り箸が個別に配膳される店では使いづらい。(店側でも余った割り箸を使いづらいだろう・・・と)
2)麺類の店では、割り箸の方が使い勝手がよい。

3)ちょっと恥ずかしい気がする。(自意識過剰かも)

4)持ち歩くのや、洗ったりするのが面倒。

言い訳が多くて困るが(笑)、食事のときに余計な気をつかいたくなくて、いつの間にか持ち歩かなくなってしまった。

今年はもう一度決意して、100%でなくてよいから「ときどき使う」ぐらいの気楽さで続けることにした。

松屋や吉野家でも何度か「マイ箸」を使っていたのだが、牛丼店でマイ箸という「なんとなくのギャップ感」があったので、割り箸から切り替えてくれた松屋に感謝!

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2006年2月12日 (日)

人生のチャート(海図)を書き換える

高木善之さんの講演を聞いて、目をつぶるしか逃げ道はないと宣告された思いがした。私たち日本人の生活スタイルは地球を破壊している。まず私たちはそのことを知り、責任を感じなくてはならない。子どもたちの代に住みよい地球を残すためには、人生の目的を改めなくてはならない。手を付けられることから始めると同時に、目的を示すチャートを書き換える作業に取り組もうと思う。

ズシリときた。先週の金曜、昨年仕事で関わった会社の方からのお誘いで、「ネットワーク地球村」代表の高木善之さんの講演会に参加した。「感動した」「感銘を受けた」といった薄っぺらいフレーズで表現できるものではなく、いくつもの衝撃的な事実を目の前に突きつけられると同時に退路を断たれ、目をつぶるしか逃げ道はないと宣告された思いがした。

話を要約して記そう。

私たちほとんどの日本人の生活スタイルは、意識をしていないかもしれないが、利益や経済を優先したものになっている。
例えば冷蔵庫の牛乳。賞味期限の新しいものと旧いもの(期限内)があれば、どっちから飲むだろうか? 「旧いほう」 どうして? 「もったいないから」
ではお店で牛乳を買うとき、賞味期限の新しいものと旧いもの(十分に期限内)があれば、どっちを買うだろうか? 「新しいほう」 どうして? 「冷蔵庫で長持ちするから」
こうして、お店では賞味期限切れの牛乳が発生し、廃棄処分されることになる。「もったいない」という答は、牛乳がもったいないのではない。自分の牛乳(ないしはお金)がもったいないだけなのだ。

こうした私たちの行動や無意識の価値観が、食糧をムダにしたり、地球環境にダメージを与えたりしている。アスベストやフロン、CO2の問題は以前から報道されてきた。ところが私たちの無知、無関心のせいで政治を動かせず、深刻化するまで問題を放置してきた。これは私たち日本人の責任だ。なぜなら欧州諸国はもっと早くから取り組んできたのだから。

このままでは、数十年もすると地球は破壊されてしまう。目先の自分の利益でなく、子どもたちのために住みよい地球を残したいなら、「いい講演を聞いた」で終わらずに、行動を起こさなくてはならない。子どもたちの代に住みよい地球を残すことを目的にした人生のチャート(海図)に書き換えて、生活スタイル(仕事も含む)を改めなくてはならない。具体的にはまず現状を知ることから始めるべきだ。

以上の話は、彼自身が言うように環境問題が中心ではなく、私たち自身の生き方を問う話なのだ。そのことをきちんと受け止めようとすると私たちに逃げ場はない。引用された映画「マトリックス」のように、現実から目をそむけて夢を見続けるのか、厳しい現実に立ち向かっていくのかを迫られる。

私にできたことはと言えば、5千円の会費を払って「ネットワーク地球村」への入会を申し込み、その場を離れることだけだった。これをきっかけに人生のチャートを書き換えなくては、いつまでも夢から醒めることにならない。

※お断り: 講演内容の要約は本ブログの筆者の記憶と解釈にもとづいています。

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2005年3月27日 (日)

■お金を仲間と同じように大事にする。

起業塾でのH社長の講演
月に1度、ある会社の「起業塾」の仕事を受け持っている。社員向けの研修講座である。私が1コマを担当し、もう1コマは毎回ゲストスピーカーとして起業家を招く。昨日はH社長。私と同年代で以前からの知り合いなのだが、話の内容は新鮮だった。

お金を大事にする
とくに心に残ったのは、彼が「お金」との関わりについて語ったことだ。お金と縁があるようになるためにお金を大事にしている、その結果、お金がついてくるようになったのだそうだ。その大事にしかたいうのが、財布を領収書などで窮屈にしない、お札を二つ折りにしない、できるだけピン札を持つ、買物のときお金に「ありがとう」と言って支払う、というものだから驚いた。

会社経営を通じて得た感覚
H社長はお金に執着心を持った人ではなく、高価なものを身につけているわけではない。会社を経営していてお金に困ったこともあり、それを仲間に助けてもらったこともある。その中で従業員に給料を支給し、取引先に代金を支払うことなどを通じて、お金を大事にする気持ちに辿り着いたという。

モノや仲間と同じ
それは、自分の所有物として大切にするのとも違う。履き古した靴や部屋の観葉植物、仲間たちと同じように対等な存在として扱い、お金が自分の手元を離れるときも、どこかで役立ってね、と見送る感覚なのだそうだ。

何かを感じた
私はまだH社長の感覚を共有できずにいるが、お金との関わりの面で出会ったことのない感覚に触れたの確かだ。しかも心の奥底にある何かに通じるもの感じるので、しばらく先入観を捨てて、その感覚を手探りしてみようと思う。■

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2004年4月 4日 (日)

■牛丼店支援キャンペーン

今年の1月辺りから、米国産牛肉の禁輸措置で、
牛丼が姿を消し始めた。

ぼくはささやかながら、
「牛丼店支援キャンペーン」
と名づけて、ふだんより積極的に牛丼店に
行くようにしている。
(と言っても週1、2回ほどだが・・・。)

牛丼は1杯300円もしない。豚丼やなんかに
変わって少し高くなったが、400円もしない。
これだけの金額でいつでもご飯が食べられるのは、
ひとえに大手牛丼チェーン店の競争と経営努力の
おかげだと思う。

ところがBSE問題のために、中核メニューを
販売できなくなった。当然売上が落ちる。
会社にとっては経営危機である。
何度も安くてそれなりにおいしい牛丼のお世話に
なった利用者としては、他人事ではない。
これがマイキャンペーンの理由だ。


こういうとき、1人の利用者としてはどういう
対応をするのがよいか? 少し極端に分けてみた。

A)牛丼の提供が再開されるまで店には行かない。
  牛丼店の経営は会社が対応すべきこと。

B)牛丼店には危機を乗り切ってもらいたいので、
  代替メニューでも食べに行く。
 (もちろん代替メニューを好きになれなければ、
  続けて行かなくてもよい。)

吉野家、松屋、すき家、中卯の大手4社はいずれも
株式を公開している。ビジネス(あるいは金儲け)
のためにお店をやっているのだから、経営危機に
客は関係ない。
利用者が支援しなくても経営危機は乗り切れる、
売上の低迷で損失をこうむるのは株主や経営者で、
利用者ではない。
これはAの立場。
この態度や主張が間違っているとは言えない。

しかし、ドライな市場原理ばかりでよいのだろうか。
各社に経営危機を乗り切ってもらうまで、
利用者として応援するというBの立場は、
企業を利するだけの情緒的な反応に過ぎないだろうか。
長い目で見れば、利用者にとっても望ましい対応とは
言えないだろうか。


きちんとした論理にもとづく主張はできない。
しかし企業に市民性とか社会的責任が要求される今日、
この問題を掘り下げれば、
「消費者は市民でなくてよいのか」あるいは
「市場経済分野での消費者の市民性とは何か」
というテーマにつながっていくと思う。■

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■数珠の珠数を数える

友人が勤めていた外資系の金融機関を退職した。
転職するつもりらしいが、しばらく休みをとって
「自分の持って生まれた数珠の玉数を数える」
と言う。
ぽくは言葉の意味を知らなかったが、
友人にたずねると、やはり仏教の教えとかで、
数珠の珠数は多い方がよいが、
生まれ持った珠数は決まっているのだそうだ。

野暮を承知で「珠数」を「能力」に置き換えた上で
わが身に当てはめて言うと、
自分の「数珠の珠数を数える」ことの大切さを
この年になって痛感している。

ぼくはその友人と同じく30代半ば過ぎである。
これまでは「まだこれから」の部分が大きい
という気持ちが強かった。
しかし、このところ徐々に自分にできることの
範囲の狭さを感じるようになってきた。

それは「能力」の限界ばかりではない。
自分の歩いてきた道がすでにあるために、
そこから行けるところがおのずと絞られている
ということだ。

もちろんそこからまったく違う方角に進むことも
できるが、それでは社会に十分に役立てない。
結果的に、食えないということもなりかねない。

自分の歩いてきた道を踏まえ、どうすれば
自己実現を図りながら、
人の役に立つことができるか――。
30台半ばを過ぎてこの問いに答えるためには、
自分の「数珠の珠数を数える」ことが
欠かせないように思う。
少々つらいが避けて通るわけには行かない。■

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2004年3月29日 (月)

■小泉「日本州知事」説

もう、少し前のことになるが、友人と話したときに
「小泉首相を米国の日本州知事だと考えると
わかりやすい」と言われた。
米国追従型の政策が目立つね、という話を
していたときのことだ。

なるほど。

確かに昔から米軍基地もあることだし、
「国民国家」という概念、あるいは
「国民主権」にもとづく「民主主義」という制度を
信用しているかぎりは、属州とか属国という
とらえ方は受け入れられないだろう。

しかし一方で、今の政治や経済政策の
中枢部分を、自分たち国民が支配していると
感じている人は少ないだろう。
非常に巧妙なしくみで、ごく一部の誰かに
牛耳られていると、誰もがうすうす感じている
のではないか。


「日本州知事」説が友人のオリジナルなのか、
はたまた別の誰かの説なのかは確かめていないが、
私たちが日本社会と国際社会を見るときの
枠組みとして、鋭い視点を与えてくれる。■

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2004年3月16日 (火)

■社会の結び目

社会の結び目の1つでありたい--
昨年結婚したとき、披露宴のお開きのあいさつで
使った言葉だ。

結婚式・披露宴・2次会という一連のイベントに
至る数ヶ月間のあれやこれやを通じて、
「結婚」というのは、
自分たち2人が結ばれるだけではなくて、
それぞれの家族や友人たちとのつながり
全体の中に、2人の結びつきを位置づける
プロセスなんだな、と感じていたからだ。


今の日本社会は社会の紐帯のほころびが目立つ。
そのせいで暴力的な犯罪が増えている面もある。
確かに、しがらみの強いムラ社会は窮屈なので、
個人の自由を大切にする都市型の社会が望ましいと
思う。しかし、無秩序すぎる面もある。

これからはムラ社会的なものとは異なる、
自由を確保しつつ秩序も維持できるかたちで
個人個人が結びつく社会に、
何年かかけて移行していかなくてはならないと思う。

例えば僕は昨年会社を退職して、フリーランス
あるいはフリーエージェントのような立場で、
複数の会社と契約して仕事をするようになった。
一昔前までは終身雇用が当たり前だったが、
今では転職は当たり前、さらに僕のような仕事の
スタイルも急速に増えている。

これは、以前はムラ社会並みに安定的・継続的だが、
同時に拘束的でもある結びつきだったものが、
自由度の高いものになった例である。
しかしそれと引き換えに
職と仕事上の人間関係が不安定になる面もある。

こうした変化の中で「結婚」は、まだ日本では、
比較的安定した長期的関係が期待できる結びつきだ。
それだけに社会の結び目としての役割は大きいと思う。


しかし裏返して言うと(当たり前のことだが)、
「結び目」は結婚だけではない。
さまざまなつながりの中で結び目としての役割を
果たしたい、という願いと意志と責任感をこめて、
このブログサイトを「社会の結び目」と名づけた。■

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